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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [10]




 このような鈴を見るのは初めてだった。他の同級生は呆気にとられ、何も言えずにただ見守っている。
「お金じゃない。犬は生きているのよ。私たちと同じなのよっ」
 誰も見たことのないような迫力でそう口にする鈴の言葉に、ポニーテールが反論しようと口を開き、だがそれは別の生徒によって遮られた。
「同じですって?」
 女子生徒三人と織笠鈴、そして教室中のすべての視線が移る先で、亜麻色の髪を揺らした女子生徒が腕組をしている。その背後には別の女子生徒。まるで亜麻色の生徒に付き従うかのように、無表情のまま佇んでいる。
「同じですって? 冗談じゃないわ」
 亜麻色の少女が口にすると同時、ポニーテールが少し上擦った声をあげる。
桐井(きりい)様」
 桐井と呼ばれた女子生徒はその声には反応もせず、ただ真っ直ぐに鈴と対峙し、ピクリと眉を上げた。
「犬ごときと(わたくし)たちを一緒だなどと、たとえ戯言だとしても、そのような言葉は口にして頂きたくはないわ」
 そこで一拍置く。
「あなたのような下賎な人間ならば、犬と同等でもおかしくはないのかもしれませんけれどもね」
 クスクスと、部屋の隅で誰かが笑う。桐井はゆっくりと組んでいた腕を解く。
「だいたい、ちゃんと保健所へ連れていったのですから、咎められる筋合いはないでしょう? 手に負えないペットを保健所へ連れて行くという行為だって、最後まで責任を果たすという行為に値すると思うわ」
「そ、そうよっ!」
 心強い加勢を受け、ポニーテールが(いき)り立つ。
「私は飼い主として責任を果たしたはずよ」
「でも、保健所へ連れて行けばどうなるか、それはわかっているはずだわ」
 鈴の言葉に、だがポニーテールはポカンと口を開ける。
「どうなるのよ?」
 本当にわからないという相手の表情に、鈴は思わず両手をギュッと握り締めた。
「どうなるって」
 声が微かに震える。
「次の飼い主が見つからなければ、殺されるわ。死ぬのよ」
 死ぬ、という言葉に、さすがに教室中の空気は張り詰めた。
 処分という名前で命を奪われる事実を、この場にいる生徒のほとんどが知らないのかと思うと、鈴は遣る瀬ない思いで再び口を開き、ポニーテールへ顔を向けた。だが、鈴が言葉を口にする前に、桐井の声が教室に響き渡る。
「殺されるとは限らないわ」
 前髪を揺らして顔を向ける鈴の視線を受け、桐井は繰り返す。
「殺されるとは限らないわ。案外、保健所で安寧(あんねい)に飼われているのかも」
「そんな事ないわ。保健所にそんな余裕はない。あなた知らないの?」
 馬鹿にするかのような言い草に桐井の頬がピクリと揺れるが、鈴は構わず言葉を続ける。
「保健所に連れてこられた犬や猫は、一週間か十日ほどしか生きていられないのよ。その間に次の飼い主が見つからなければ殺されてしまうのよ。連れてこられた犬や猫のすべての面倒をみてあげられるほど、保健所には余裕なんてないのよ。テレビや新聞でもやってるでしょう?」
「あんなもの、本当だとは限らないわ」
 桐井は瞳を細めて相手を侮蔑する。
 私を無知だと言うの? 一般人の分際で。
 身分の低い存在として見下すべき少女に反論されるなど、桐井はどうしても認めるわけにはいかない。
 このような人間が私と対等に言い合うなど、許されるはずがない。私が間違っていて彼女が正しいだなんて、そのような事は認めない。彼女は私よりも劣っているのだ。どちらかが間違っていると言うのならば、それは彼女でなくてはならない。
 そうだ、彼女の言い分を正論にしてはいけない。正しいのは私だ。私が正しいのだ。
「テレビや新聞の報じているすべてが本当だとは限らないでしょう? それらをいちいち信用してギャーギャー騒ぎ立てるなんて、見ているだけで不愉快だわ。やめて頂戴」
 保健所の実態を知らないのかと言われたのがよほど頭にきたのか、桐井は鈴の発言を全面拒否で弾き返す。
「テレビなんて、あんなものはどうせヤラセよ。捨て犬や捨て猫を減らすために保健所で殺すだなんて嘘の報道をしているだけだわ」
「嘘じゃないわ」
「どうかしら?」
「嘘だという証拠でもあるの?」
「じゃあ、本当だという証拠でもあるの?」
 鈴の言葉を切り返し、肩にかかった亜麻色の髪を片手で払う。
「証拠でもあるの?」
「あるわ」
 織笠鈴はキッパリと答え、それまで桐井を睨み付けていた視線を落とした。
「私の父は、保健所で働いているもの」
 何かに耐えるように、グッと奥歯を噛み締める。
「手に負えなくなったと言って連れてこられたり、捨てられて野良になった犬や猫も連れてこられる。九日間までは世話をして、でも十日目には殺されるわ」
 鈴は一度、保健所を見学した事がある。命の大切さを学ぶためという理由で、近くの小学校や学童施設を対象に見学会を開いているのだ。
 鈴の父親は、自分の仕事を娘に隠すような事はしなかった。妻であり、鈴の母親でもある女性の病死から目を背けるような事もせず、娘に問われれば向き合って答えることのできる人間であった。命の大切さを、ちゃんと娘に教える事のできる人間だった。
 だがきっと、唐渓に通う生徒はそのような催しには参加しないのだろう。中学受験を最優先に小学校生活の日々を過ごしているのだろうし、そのような施設は我が子に過度のショックを与えるなどという理由で、子供に見せたがらない親も多い。
「犬も猫も、何も悪い事はしていない。せっかくこの世に生まれてきたのに、人間の勝手な理由で殺されるのよ」
 静まり返った教室で唇を震わせて目の前の机を睨み付ける。そんな鈴の頭上に、その声はあまりにもあっさりと降ってきた。
「勝手なのはどちらかしら?」







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